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第2話 187億円と雑巾がけ

Penulis: 6jay
last update Tanggal publikasi: 2026-09-15 20:57:03

そっけないのに、妙にふてぶてしい。

紗良の返事を聞いた冬真は、あきれたように息だけで笑った。

「結構です。3日後に自分から荷物をまとめても、違約金を請求しないでくださいよ」

彼はリビングのテーブルに置かれたタブレットを、顎で示した。

「規則は全部で47項目。室温は正確に21.5度、照度は40ルクス。寝具はヘッドボードに対して直角を保つこと。冷蔵庫の飲料はラベルを正面に。水垢も埃も、1ミリグラムたりとも許しません」

「覚えるのは1分で十分です」

紗良はまだ画面を開くこともなく、平然とうなずいた。

数百ページに及ぶ多国籍企業の買収契約書。その不利な条項まで10分で頭に入れる彼女にとって、家事のルール47個など、たかが知れている。

「出勤するまでは、私の目に入らないように」

冷たい言葉を残して、冬真は書斎へ入った。扉が閉まる。

取り残された紗良の口元が、かすかに上がった。

「47個……。ずいぶん緩いのね」

飾り気のないリネンのエプロンを締め、髪をきっちりまとめる。

彼女の目には、この600平方メートルのペントハウスはひどく散らかって見えた。

歴代のハウスキーパーは冬真の顔色をうかがうあまり、表面を磨き上げることしかできていなかったのだ。物の配置も、家事の流れも、根本から整っていない。

1兆円を動かしてきた、徹底した効率主義者の本能が目を覚ました。

まずはリビングの大きな窓。アルコール溶液で、ごく薄い油膜まで丁寧に取り除く。

窓枠の隅に入り込んだ埃を極細ブラシでかき出すと、港区の夜景は、そこにガラスなどないかのように澄んで見えた。

次はドレッシングルーム。

何十着ものスーツを、季節、素材の厚み、色の濃淡の順に並べ直した。ハンガーの間隔はすべて3.5センチ。レーザーで測ったかのように、寸分の狂いもない。

キッチンで冷蔵庫を開けた瞬間、紗良は眉を寄せた。

「ソースのラベルが、全部ばらばらじゃない」

炭酸水、ジュース、ミネラルウォーター。ボトルのバーコードの向きをそろえ、調味料は高さと容量に応じて、整然と区画に収めていく。

1本があるべき場所に戻るたび、こめかみを締めつけていた圧迫感が少しずつほどけた。

何百枚もの財務モデルの数字を合わせるより単純で、それだけに、確かな満足がある。

浴室のタイルの水垢と、排水口の油汚れを専用のスチームクリーナーで落としきって、ようやく紗良はゴム手袋を外した。

時計は夜10時を指していた。

そのとき、エプロンのポケットに隠したサブ端末が震えた。

ヴァルハラ・キャピタルの最高投資責任者から届いた、最上位のセキュリティ通知だ。

紗良は家事室に入り、内側から鍵をかけてタブレットを起動した。

【スイスのバイオ企業「ノヴァジェン」株式42%の一括取得――承認待ち】

取得総額、187億円。

スイス法人の財務諸表と、特許ライセンス契約書に目を走らせる。30秒で読み終えると、右下の【最終承認】に指を当てた。

ピッ。

【187億円規模の株式一括取得が最終承認されました。執行手続きを開始します】

187億円の案件が、自分の手を離れた。

紗良はタブレットの画面を落としてエプロンにしまい、再び雑巾を手に取った。

「浴室のシリコンの隅に、少し水垢が残っていたわね」

* * *

夜11時半。

ひどい頭痛を抱えて書斎を出た冬真は、リビングに一歩踏み出したところで足を止めた。

「……何だ?」

空気が違う。

かすかなヒノキの香りと、21.5度に保たれた涼しい空気が、肺の奥まで流れ込んでくる。

これまでの家が埃ひとつない展示場だったとすれば、今は、必要な物が必要な場所にある、ちゃんと暮らせる空間だった。

冬真は疑うように飾り棚の上を指でなぞった。

埃ひとつ、つかない。

冷蔵庫を開けた瞬間には、思わず息をのんだ。

何十本もの飲料やソースの容器が、現代美術館の作品のように、完璧な秩序と水平を保って並んでいた。

「たった半日で、どうやって……」

寝室では、さらに驚かされた。

高級な寝具はしわひとつなくぴんと張られ、枕の角度は完全に左右対称。いつもなら横になるだけで不安や雑念が押し寄せ、心臓が騒ぎ始める部屋だ。

冬真はサイドテーブルの睡眠薬へ手を伸ばしかけて、止めた。

整いきった空間が、10年間張りつめていた神経を、不思議なほど優しく緩めていく。

引き寄せられるように、ベッドへ身を横たえた。

かすかに音を立てるシーツの感触。どこにも引っかかりのない空気。

毎晩2時間も眠らせてくれなかった不眠の苦しさが、嘘のように遠のいていく。

(あの女……いったい何者なんだ)

答えを探す間もなかった。

睡眠薬を飲まずに横になった冬真は、そのまま深い眠りに落ちていた。

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